1. 明治・大正・昭和時代

    約150年前から現在

    明治・大正・昭和時代

    明治時代に入ると、近代国家形成のために各種制度が始まります。

    1869(明治2)年には廃仏毀釈運動が起こり、市内の寺院は全て廃寺となり、観音像などの石造物は首や手を切断されるなど、被害を受けています。

    1871(明治4)年の廃藩置県により、鹿屋市は都城県に属しますが、2年後の明治6年には都城県が廃止され、鹿児島県に編入しました。

    1878(明治10)年には、国内最後の内乱となる西南の役が起こり、鹿屋市輝北町では官軍と薩軍の争いがあり、薩軍が勝利を収めています。

    1889(明治22)年町村制の実施に伴い、鹿屋地域は鹿屋・花岡・大姶良・高隈・姶良・西串良・百引・市成の8つの村が置かれました。

    その後、鹿屋村は1912年鹿屋町となり、西串良村は1932年、姶良村は1947年、百引村・市成村は1956年に合併し、それぞれ串良町・吾平町・輝北町となりました。

    また、1941年鹿屋町は、大姶良村・花岡村の3町村の合併により市制が始まり、その後、高隈村および垂水町の一部地域(根木原・桜町地域)の編入を実施しています。

    平成18年1月1日、鹿屋市・吾平町・輝北町・串良町が合併し新「鹿屋市」としてスタートし今日に至っています。

    また、1936年には日本海軍航空隊の基地がおかれ、第2次世界大戦中には、鹿屋飛行場・笠野原飛行場・串良飛行場の3箇所あり、特攻隊の基地となっていました。

  2. 江戸時代

    約-年前から-年前

    江戸時代

    江戸時代薩摩藩では、島津氏が領主として薩摩藩を治めていました。藩内は薩摩藩独自の外城制度により支配され、鹿屋地域では鹿屋郷・高隈郷・大姶良郷・花岡郷の4つ、吾平地域では姶良郷、輝北地域では百引郷・市成郷の2つ、串良地域では串良郷が設置されていました。各郷は地頭と呼ばれる役人によって治められ、地頭が居住する場所を地頭館・地頭仮屋と呼んでいました。

    また、花岡郷と市成郷は島津本家の分家である、花岡島津家と土岐家の私領となっており、地頭は置かれず、領主が直接治めていました。

    また、江戸時代の中期になると、全国的にも珍しい「田の神像」が市内各地に造られ始め、また民衆の信仰を物語る観音像や庚申塔なども造られています。

    鹿屋市内にはこの時代の史跡などとして、花岡島津氏歴代墓地笠野原土持堀の深井戸中津神社本殿、田の神像、観音像、仁王像など数多く文化財などが残されています。

  3. 江戸時代

    約-年前から-年前

    花岡島津氏歴代墓地(市指定)

    花岡島津家は、1724(享保9)年に大姶良郷のうち木谷・白水の2村を分割して、島津久儔に与え、一所持としたことから始まりました。島津八家の内、御一門四家に次ぐ家格であり、普段は鹿児島市内の鶴丸城下に居住し、領地の視察などの際に仮屋(現鶴羽小学校敷地)に滞在していました。

    墓地には、初代から9代までが埋葬されており、男女で墓石が区別されるなど、学術上大変貴重な史跡です。

  4. 江戸時代

    約-年前から-年前

    笠野原土持堀の深井戸(県指定)

    鹿屋市串良町細山田にあり、江戸時代の文政から天保年間(1818~1841)に掘られた井戸です。笠野原台地はシラス台地で、雨が降ってもすぐに地下に吸い込まれるため、深さ64mとなっており、周囲には牛馬で水をくみ上げていた道も残っている。当地域に現存する深井戸で最も原形をとどめています。

    人々の苦労を物語るこの井戸は、鹿児島県の指定文化財となっています。

  5. 江戸時代

    約-年前から-年前

    【文化財】田の神像

    現在でも、タノカンドンとかタノカンサアーと呼ばれて親しまれている田の神像は、鹿児島県と宮崎県の一部(旧薩摩藩領内)だけに見られる石で作られた像です。 稲作の豊穣をもたらすとされる農業の神様で、一般に稲作の始まる春ごろ山から降りてきて、収穫をする秋のころ山に戻るとされています。

    県内に約2000体あるといわれているこの田の神像は、江戸時代を中心に作られたものが多く、川のほとりや田んぼの畦道、また田を見渡せる高台などに立っています。

    この像は、神官の姿・僧侶の姿等で手にスリコギやメシゲ(しゃもじ)、鈴を持ち、市内では現在140体ほど確認されています。その中には家の中で保管されている個人所有のものや、地域行事の中で使われているものなど、先人の暮らしや心を伝えるかけがえのないものとして、地域の中で脈々と生き続けています。

  6. 江戸時代

    約-年前から-年前

    中津神社本殿(市指定)

    鹿屋市上高隈町の中津神社は、1351(正平6)年高隈郷の総鎮守として創建され、現存する本殿は、1653(承応2)年に再建されたものです。

    三間社流れ造り杮皮葺きで、現存する鹿屋市内の木造建築物で最古のものであるとされています。

  7. 江戸時代

    約-年前から-年前

    【文化財】飴屋敷の観音(市指定)

    鹿屋市吾平町上名にあり、台座の上に片ひざを立て、頬づえをついた均整の取れた美しい観音像です。台座に1721(享保6)年の刻字があり、吾平地域では同じ年に造られた観音像が6体あり、大変興味深いものとなっています。

  8. 江戸時代

    約-年前から-年前

    【文化財】含粒寺石像群(市指定)

    鹿屋市南町含粒寺の敷地内にあります。仁王像4体・地蔵2体・観音像2体・六地蔵塔1基・板碑1基は、いずれも均整の取れた像で、特に仁王像は完形のまま残っており、鹿屋市を代表する仁王像です。

  9. 江戸時代

    約-年前から-年前

    【文化財】徳留の虚空蔵菩薩像(市指定)

    鹿屋市輝北町市成にあり、宝冠をかぶり、右手に宝剣、左手に宝珠を持った菩薩像です。1760(宝暦10)年に造立され、市内でも大変珍しいものです。

  10. 鎌倉・室町・安土桃山時代

    約-年前から-年前

    鎌倉・室町・安土桃山時代

    1186年源頼朝の命を受け、島津忠久が薩摩・大隅・日向の3カ国の守護となりました。これに伴い、鎌倉幕府の支配下におかれることになりますが、この時から約400年間島津氏対肝付氏の争いが始まることになりました。

    鹿屋市内には、戦乱の舞台となった山城跡や戦乱・開墾作業などに伴う供養塔などが残されています。

  11. 鎌倉・室町・安土桃山時代

    約-年前から-年前

    山城跡

    一般的にお城というと大阪城や姫路城、熊本城などの天守閣を持ったお城を考えますが、これらは安土桃山時代に入ってから造られた居住空間を持つ平城です。鎌倉・室町時代は、自然の地形などを利用した山城が多く造られ、戦乱の時だけ城に入り、普段は麓と呼ばれる城下に居住していました。

    鹿屋市内では、輝北町平房にある加瀬田ヶ城、大姶良町の大姶良城、串良町の鶴亀城など数多くの城が残されています。

  12. 鎌倉・室町・安土桃山時代

    約-年前から-年前

    供養塔

    供養塔は、五輪塔・宝塔・宝篋印塔・板碑・六地蔵塔など多数あり、死者の霊の冥福を祈るために造られた石塔のことです。

    昔の人々は、現在のように死後にお墓を作るのではなく、生きている間に死後の冥福を祈る逆修という仏事や、戦乱の前に戦勝祈願などのために供養塔を建立する生前供養を行っていました。

    実際に死んでしまうと生前供養で建立した供養塔などに納骨します。

  13. 飛鳥・奈良・平安時代

    約1400年前から-年前

    飛鳥・奈良・平安時代

    飛鳥時代から奈良時代にかけて、大隅隼人と呼ばれる地方豪族が鹿屋地方を中心とする大隅半島にいたとされており、大和朝廷に服属したり、反逆したりを繰り返していました。

    713年に日向国から分国して大隅国が設置され、国衙が今の霧島市国分あたりに置かれ、朝廷の支配下に入ることになりましたが、720年に大隅国初代国司陽候史麻呂が大隅隼人に殺害される事件が起こり、大隅国内は朝廷対隼人の争いが勃発し、朝廷軍が平定したとされています。

    平安時代に入ると、荘園の発達により、鹿屋地域は島津荘、吾平地域は正八幡宮領、輝北地域の百引地区が島津荘、同市成地区が正八幡宮領、串良地域が島津荘として発達を遂げ、肝付氏と呼ばれる有力豪族の支配下にあったとされています。

    この時代の史跡や遺跡としては、国司塚宮ノ脇遺跡新田遺跡があります。

  14. 飛鳥・奈良・平安時代

    約1400年前から-年前

    国司塚

    鹿屋市永野田町にあり、720年大隅国初代国司陽候史麻呂が鹿屋地方の巡検に来た際に、大隅隼人が急襲し、国司が息絶えたとされている伝説の残る場所です。長年永田家の氏神として祀られています。

  15. 飛鳥・奈良・平安時代

    約1400年前から-年前

    宮ノ脇遺跡

    鹿屋市花岡町にあり、縄文時代から古代にかけての遺跡です。

    特筆すべきは、銙帯(銅製の帯金具)であり、鹿屋地域の古代官位制を知る上で大変貴重な資料です。

    ベルトのバックルのようなもので、古代は官位によって区別されていたと考えられています。

  16. 飛鳥・奈良・平安時代

    約1400年前から-年前

    新田遺跡

    鹿屋市輝北町下百引にあり、古代から中世、近世にかけての遺跡です。鹿屋市内で古代から近世にかけての遺跡は大変珍しく、当時の生活を知る貴重な遺跡です。また、土師器に墨で文字を書いている墨書土器も見つかっています。

  17. 古墳時代

    約1700年前から1400年前

    古墳時代

    古墳時代は、今から約1700年前から1400年前までとされていて、古墳が造られ始めてから造られなくなるまでの時代です。県内において前方後円墳は大隅半島にしか存在せず、鹿屋市にも数基確認されています。また、地下式横穴墓と呼ばれる南九州特有のお墓もあり、鹿児島県を代表する遺物が数多く見つかっています。

    鹿屋市内の古墳時代の代表的な遺跡は、上小原古墳群岡崎古墳群川地下式横穴墓群、中尾地下式横穴墓群に代表される吾平町の地下式横穴墓などがあります。また、現在東九州自動車道建設工事に伴い、串良町細山田立小野堀遺跡を県立埋蔵文化財センターが調査中であり、120基を越えるが確認されており、調査結果が待たれているところです。

  18. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    上小原古墳群

    鹿屋市串良町上小原にあり、5世紀中頃の前方後円墳(4号墳)1基・円墳20基・地下式横穴墓4基が確認されている。特に4号墳の近くから須恵器のハソウと樽型ハソウが出土しています。

  19. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    岡崎古墳群

    鹿屋市串良町岡崎にあり、5世紀中頃の前方後円墳2基(内15号墳は帆立貝式古墳)・円墳14基・地下式横穴墓5基が確認されています。  特に15号墳から、や、が県内で初めて見つかっています。また、ヒスイ製の勾玉と碧玉製の管玉が出土し、ヒスイは新潟県糸魚川流域産のものとされており、当時の人々の交流の証となる大変注目される出土品となっています。

  20. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    祓川地下式横穴墓群

    鹿屋市西祓川町にあり、5世紀後半頃の地下式横穴墓が34基確認されています。出土品で注目されるのが、大隅半島で2本目の発見となった蛇行剣です。また、昭和25年に発見された「短甲・衝角付冑」も出土地の詳細は不明ですが、この墓群内から出土しており、県内でもこのようにしっかりと形を残した例は他になく、県指定文化財となっています。

  21. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    吾平町の地下式横穴墓群

    吾平町は5箇所から地下式横穴墓が見つかっています。

  22. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    天神原地下式横穴墓群

    鹿屋市吾平町下名にあり、これまでに3基が調査されており、5世紀末から7世紀にかけての長い間墓域として使用されてきたと考えられています。出土品は、軽石製組合式石棺・刀子・人骨などです。

  23. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    宮ノ上地下式横穴墓群

    鹿屋市吾平町麓にあり、古くから地下式横穴墓群として知られており、これまでに15基の地下式横穴墓が確認されています。出土遺物は、鉄剣や鉄刀、鉄鏃などの鉄製品や、遺体を埋葬する玄室内から軽石製組合式石棺が確認されています。宮ノ上の地下式横穴墓は、古いタイプから比較的新しいタイプのものまであり、ある一定の期間墓域とされてきたと考えられています。

  24. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    堀木田原地下式横穴墓

    鹿屋市吾平町麓にあり、古くから地下式横穴墓群として知られており、これまでに15基の地下式横穴墓が確認されています。 出土遺物は、鉄剣や鉄刀、鉄鏃などの鉄製品や、遺体を埋葬する玄室内から軽石製組合式石棺が確認されています。宮ノ上の地下式横穴墓は、古いタイプから比較的新しいタイプのものまであり、ある一定の期間墓域とされてきたと考えられています。

  25. 弥生時代

    約1700年前から1400年前

    名主原遺跡(地下式横穴墓)

    鹿屋市吾平町麓にあり、遺跡の南側部分から地下式横穴墓が6基確認され、鉄刀や刀子などの副葬品と思われる鉄製品などが出土しています。中でも1号墓では、羨道を塞ぐ土塊の上に鉄刀が配置してある特異な例も見つかっています。

  26. 弥生時代

    6世紀後半から7世紀初頭

    中尾地下式横穴墓群(中尾遺跡)

    中尾地下式横穴墓群では、これまで8基の地下式横穴墓が確認されており、その中でも6号墓からは象嵌装大刀の外に鉄刀が2点、鉄剣が1点、鉄鏃が7点(5個体、2集合体)、耳環2個、刀子3点出土し、平成23年2月23日鹿屋市の指定文化財となりました。7号墓からは県内初の発見となった円頭大刀も見つかっており、この墓域に埋葬された人はかなり位の高かった人ではないかと考えられています。

    中尾地下式横穴墓群の時代は、出土した土器などの遺物から推定して6世紀後半から7世紀初頭とされています。ちょうど聖徳太子が推古天皇の摂政となり中央政権で活躍している頃です。

  27. 弥生時代

    約2300年前から1700年前

    弥生時代

    弥生時代は、今から約2300年前から1700年までとされています。この時代になると、米作りが本格化し、人々はムラを形成し定住化していたとされています。鹿屋市内からもその証となる竪穴住居跡や石包丁など数多くの遺構や遺物が見つかっています。

    鹿屋市を代表する弥生時代の遺跡は王子遺跡西ノ丸遺跡名主原遺跡などがあります。

  28. 弥生時代

    約2000年前

    西ノ丸遺跡

    鹿屋市串良町岡崎から見つかった今から約2000年前の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。特に、鹿児島県内初の低地性環濠集落の証となるV字溝が東西に1条見つかっています。

  29. 弥生時代

    約2000年前

    王子遺跡

    鹿屋市王子町から見つかった今から約2000年前の弥生時代の遺跡。

    竪穴住居跡が27軒、建物跡が14軒、溝状遺構など数多くの遺構が発見され、大集落を形成していたもの考えられています。遺物は、当時人々の交流を物語る北部九州や瀬戸内地方の土器、土製勾玉などの装飾品、など貴重なものが数多く出土しています。

    また、日本の建築史を考える上で大変貴重な、その後の伊勢神宮などの建築様式につながるものとも考えられており、大変興味深いものです。

  30. 弥生時代

    約2000年前

    西名主原遺跡

    鹿屋市吾平町麓から見つかった今から約2000年前の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。発掘調査により、竪穴住居跡が54軒も見つかっており、大集落を形成していたと考えられています。また、県内初の人間を表現した「絵画土器」や、県内最多の出土数(31本、製作段階のもの含む)を誇る石包丁など貴重な遺物が多数見つかっています。

  31. 縄文時代

    約13000年〜2300年前

    縄文時代

    縄文時代は、今から約13000年〜2300年前までとされていて、まだ鹿屋では米作りは行っておらず、人々は狩猟を行い、どんぐりなどを食べていたと考えられています。また、この時代の特徴である縄文土器は、縄目の模様が入っているからその名が付けられましたが、鹿児島などの南九州では、貝殻を使って模様をつけている土器が多く見つかっています。

    鹿屋市を代表する縄文時代の遺跡は、益畑遺跡和田遺跡などがあります。

  32. 縄文時代

    約9500年前の縄文時代早期

    和田遺跡

    鹿屋市吾平町上名から見つかった今から約9500年前の縄文時代早期の遺跡。土器や石器のほかに集石遺構が多数見つかっています。

  33. 縄文時代

    約9500年前の縄文時代早期から弥生時代や古墳時代、平安時代、鎌倉時代

    益畑遺跡

    鹿屋市串良町細山田から見つかった、今から9500年前の縄文時代早期から弥生時代や古墳時代、平安時代、鎌倉時代の生活の跡などが見つかっている複合遺跡。

    特筆されるのは、縄文時代早期で住居跡が2軒、16基、集石遺構86基、土坑160基などが確認されています。出土遺物も縄文土器や石器(・など)などが多数見つかっています。

  34. 旧石器時代

    約2万年以上前

    旧石器時代

    鹿屋市では旧石器時代の遺跡として、郷之原町榎崎遺跡や白水町西丸尾遺跡などで石器が見つかっており、約20000万年以上前から人々が生活していたものと考えられています。鹿屋市には、この他にも多くの旧石器時代の遺跡が眠っていると考えられていますが、今から約24000年前の姶良カルデラの噴火により、厚いシラス層の下にあるため、全容をつかむことができません。